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「抜萃のつづり」から

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「抜萃のつづり」から

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全国のロータリークラブの会員全員に「抜萃のつづり」というエッセイ集を無償で配布している会社があります。熊平製作所と言う会社で、昭和6年からはじめ、今回が71号となっています。1年間の新聞、雑誌などから心に響くエッセイを集めて掲載しています。発行部数が何と45万部ということなので、かなりのコストがかかっていると思いますが、頭の下がるような方っているものだなあといつも感心します。今回は、そのひとつを紹介します。

―――
~「見上げてごらん夜の星を」藤井仁司
 祖母が文字を読み書きできない非識字者と知ったのは、私が発した一言からだった。
「ばあちゃんの家、新聞ないの?」
「ないよ。ばあちゃん、文字読めんからね」
 祖母は恥ずかしげに笑って答えた。
 聞けば、祖母は幼いころから実家の仕事を手伝い、学校に通わせてもらえなかったという。結婚してからも仕事と育児に奔走し勉強する時間など作れなかった。
 そして読み書きできないまま気づけば70歳を迎えていた。
 日本人でありながら日本語を読み書きできない人がいることに中学生だった私は驚いた。そして祖母に読み書きを教えたいと思った。
「おれがひらがなを教えてあげるよ」
「この年で勉強なんてええよ」
「勉強は何歳になってもできるって」
 初めは断り続けた祖母だったが、心のどこかで勉強したい思いがあったのだろう。説得を続けると「頑張ってみる」と承諾してくれた。
 とはいえ、どうやって祖母に読み書きを教えればいいのかわからなかった。学校の国語の教科書を使っても、ひらがなを読めない祖母には中学生の国語は難易度が高すぎ、小学校時代に使っていた漢字ノートを駆使して教えてもうまく教えられなかった。
「どうすればわかりやすく教えられるんやろ」
 連日思案した結果、私はひとつの案を思いついた。
「ばあちゃん、一番好きな歌はなに?」
「そうやね、一番好きなのはやっぱり坂本九の『見上げてごらん夜の星を』やね」
 結婚してからもテレビを買えなかった祖母の楽しみはラジオを聞くことだった。ラジオから流れてくる音楽を聞いて、仕事と家事で疲れた体を癒すのが唯一の楽しみだった。その中でも坂本九の歌が流れると小さい子供たちと一緒に歌っていた。
「よし、決まりだ」
 私はすぐさま坂本九のカセットテープを買い、自宅にあったラジカセを持って祖母の家に戻った。
「これからはこの歌で勉強するで」
 私が思いついた勉強方法は、好きな歌の歌詞をノートに書き写して覚えるというものだった。好きな歌なら何度聞いてもあきないし、歌詞もすぐに覚えられると考えた。
 私の考えは見事的中し、「見上げてごらん夜の星を」を聞きながら歌詞カードの字を祖母は何度も何度も書き写し勉強してくれた。
 でも坂本九の歌を聞くと、祖母はときおりうれしそうに聞き入り、勉強の手を休めてしまった。
「そんなに坂本九が好き?」
「好きやで。でも今はそれ以上に、九ちゃんの歌を聞きながら孫と一緒に勉強できることが幸せなのよ」
 祖母は歌だけでなく私と勉強する時間を楽しみにしてくれていた。それは、勉強したくてもできなかった幼少期の時間を取り戻そうとしているように私には見えた。
 祖母はそれから二年後に、癌のため天国に旅立った。なかなかひらがなを覚えられなかったが、亡くなる寸前に努力の結果を、最初で最後になる手紙を、私に書き残す形で表してくれた。
「いままでおおきに」
 ひらがな一つ書けなかった祖母が書いた手紙は、とても汚い字なのに、どんな字より心に染みる美しさだった。
 たまにラジオから坂本九の歌が流れてくると、私はいつも「頑張ろう」という気持ちになる。それは、頑張って勉強した祖母の笑顔が今も忘れられないからだと思う。
 歌には、人を勇気づける力があると、私は確信している。
―――
 年をとってくると、涙もろくなるんですかね。

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